国語科教育における大きな目標は二つある。
一つは、伝達コミュニケーション能力の育成である。正確さや豊かさを基準に自分の考えを表現し、他者の考えを理解する。それは文字言語能力でもあるし音声言語能力でもある。
しかし今回はもう一つの方、言語による認識力と思考力の育成について考えていきたい。
具体的に考えてみると、例えば「説明力」はおそらく論理的な認識と思考のプロセスのバリエーションだろうと思う。
これは、他者に対しては説明する力であるが、自分に対して同様のことを行う場合には理解する方法となる。
また、論理的な情報操作、いわゆる情報力についても、以下のように複数の情報を操作して、新しい認識に至るわけだから、認識の方法で有り、こちらは分析の方法であると言える。
新しい学習指導要領では、こうした論理的な情報操作能力は、指導事項の中に内包されているが、複数の情報を関係づけて、考えることは思考力の具体的な姿とも言える。
私たちはこうした認識や思考のプロセスを、学習者自身が必要に応じて自ら遂行し、新しい認識に至ったり、深く物事を考えたりできるように育てていかなければならない。教材を読むことを通して、その随所にこうした学習を散りばめながら、方法知として可視化してやったり、そのできばえを評価してやったりしながら長期的な視点でその育成を学習の積み重ねとして実現する必要がある。
これらは比較的客観的な社会問題や自然科学、社会科学のトピックを教材とした場合である。
しかし国語科教育ではこうした客観性の高い対象の伝達と理解を重視する一方で、もっと感覚的で主観的な対象の伝達と理解を学ばせることを重視している。国語教育が扱っている主観性の高い対象とは大凡大きく分けると三つある。
①不可視的なもの
②人間の言動や出来事に内包されている意味や価値
③概念
教材の配列を眺めてみると①に関しては以下のようなものかと思う。
人間関係
心情
五感(味覚や嗅覚、痛みなど)
希望や空想、想像 ファンタジックなもの
主観的な考え方
人間関係には親子関係などのように切れないものもあるけれど、基本的には移ろいやすく変化していくものである上に、「自分たちの関係は一体何だろうか」と日々の生活の中で考え込んでしまうことも多いほど、人生の中で重要な認識と思考の断片である。こうしたことに長けているというか、意識を精緻に向けられることは、大切なことだなと思う。
小学校の文学教材のほとんどが関係性をテーマにしていることからも、比較的早い時期からこうしたことを認識させ、考えさせる機会を設けていることが分かる。
アーノルド・ロベールの『お手紙』は、がまくんがかえるくんからもらった手紙の中身に感動するシーンがあるが、児童と一緒に「親愛なる」とはどういう気持ちなのかとか、「親友」という言葉の意味を読み取らせようとする。たしかに、二人の関係をどう捉えるのかという事は重要な学習ではあるが、経験的にまだ幼い小学校2年生にはこうしたことを理解するのは難しい。おそらく登場人物であるがま君自身も、この手紙で表現されていることがどの程度理解できているのか怪しいところではある。
しかし手紙を読んだがま君は「ああ、いい手紙だ」というわけだから、手紙を誰からももらったことのない彼にしてみれば、もらった喜びに加えて、温かい内容の手紙の中身にも癒やされているに違いない。いずれにしても、この早い時期から既に児童には人間関係成るものに目を向けさせ、ストーリーや言動を通してその関係性について認識し思考させる学習を用意しているのである。ごんや大造じいさんとガンといった定番教材もやはりそうである。
中学に行くとそれは、三者関係やコンプレックスを抱く相手との関係と多様で多岐にわたっていく。そして高校になると、その関係性の変容に苦悩する人間の姿に向き合うようになる。